2017年7月8日土曜日

いわゆる「百合BL」について

ここで言う「百合BL」とは、BLにおける受けと受け同士のカプを意味する。図式としては(たとえば)ABとCDのカプがあらかじめあったとして、受けであるBとDとでカップリングを構成するBDを「百合BL」という(この限りではないが、カプの論理的にはおおよそこれに準ずる)。
この意味の「百合BL」とか「百合カプ」はBL文脈で時間的にはかなり前から、それなりに広い範囲で(とはいえBL内部でも知らない人のほうが多いと思うけれど)使われていた言葉だが、この名を冠した商業誌がシャルルコミックス(Charles Comics)というレーベルから発表されたことをきっかけに、Twitter上などで話題になった(炎上した)。
炎上の方向性としては、どちらかと言えば、百合を主ジャンルにしている人たちが、「百合BL」という言葉の使用自体を問題視しているということらしい。

前提として本記事での私のポジションは、問題になっているような意味での「百合BL」「百合カプ」という言葉を使わないでもない、という立場なので、この言葉が圧殺(?)されると困る。(「受け×受け」「受けカプ」などの表現で代用できないものでもないけれど)
この記事では、定義した意味での「百合BL」という言葉にまつわる問題のみを取り上げることとして、議論のきっかけとなった商業誌については取り扱わない(出版前なので取り扱いようもないし、商業BLをよく読む人間ではないので、その方面については私の知識・関心からしてもなにも言えない)。

以下、論点になっていることを並べて、それについて私見を述べる。


1.百合とBLの住み分けを崩すので問題だ。
問題が観念的すぎてよくわからない。
この点はかなり多くの人が問題視しているようなので何か困る部分があるのかもしれないけれど、私にはその内実がよく理解できなかった。
百合BLという言葉が広く使われることによって、ある作品・カプ・ジャンルなどが百合なのかBLなのかわからなくなってしまう、という心配だとしたら、杞憂だと思う。

2.百合(あるいはBL)を検索する際に百合BLが表示されると迷惑。
マイナス検索での対応が可能かと思う。
BL内での「百合」という言葉自体はかなり以前から存在していて、それで今までに実害が起きていないのだから大丈夫では?という旨のツイートをTwitterで見たが、同意見。
騒動が治まれば「百合BL」という言葉が使われる頻度も減るはず。検索のノイズになる情報は多々あって、その中で特別重視するほどのことでもない。

3.百合を汚すな。
論外。

4.百合以外のジャンルが百合という言葉を使うのが問題だ。
これは理解ができる。あるいは先の「住み分け」も言い換えればこういうことだろうか。
(違う話になるけれど)たとえば、私は仏教徒だけれど、仏教徒として私が重視している言葉について、俗な使われ方をしているのを見ると苦々しく思うことがある。やめてほしいと思ったりもする。(と、言いつつ、私自身、自他の宗教的な言葉をいい加減な使い方をしていることもあるので、人のことは言えないなと思うのだけれど、それはさておき。)
ある語が異なる文脈において、もとからあった文脈とは違う形で使われる、ということによって、その語を重視している自分自身やその語が属する文化・サークルが、なんらかの侵害を受けているように感じるという感覚はわかるし、考慮されるべきかと思う。
ただしこういうことは、特定の文化に属している人びとが、その文化内でのある言葉についての独占使用権を主張するという話にまでなるとしたら、それはちょっと色々と不具合が起きるのではないかとも思うので、言葉の性質や、侵害の程度を勘案しつつ、常識とか慣習とか思いやりとかによって、「なんとなくいい感じに」判断していく、というところにとどめておくのがよいだろう。
(「一人相撲」とか「不退転の決意」とか、まったく異なる文脈の言葉が比喩的に用いられることは日常に多くある。こういうものをすべて排除していくと、不便だろう。このような語について、どこかの個人や団体がその使用の取りやめを求めるとしたら、そのとき私がどうするかはケース・バイ・ケースだが、一律に取りやめるということはしないつもりだ。)
(また、言葉を異なる意味で使うということ自体が問題視されるとしたら、「百合」を「女性同性愛」の符牒に使うこともまた問われなければならない。これは既にTwitterで複数人によって指摘されていた点。)
「百合」という語を「なんとなくいい感じに」使っていく、という範囲がどこまでなのかという点はまさしく議論が分かれるところで、私は比喩として「百合BL」という表現はありだと思っているが、これをよくないと感じる人が多いようだ。よくないと感じる理由については、おそらく5と6に関連している。

5.攻め=〈男〉:受け=〈女〉という理屈が問題。
これはクリティカルかと思う。
またこれに関連して、次の6

6.「百合」という言葉が「受け×受け」的なものとして使用されることによって、(生物学的かつ性自認における)「女と女」との組み合わせにおいて、多様な関係性を模索してきた百合創作文化の歴史が無視されている。
これもよくわかる。これら5、6には、一般論としてのジェンダーの問題と、BL・百合文化内部での攻め/受け概念の問題がかかわっている。
第一に、同性愛フィクションであるBLが、挿入する側(攻め)を男とし、挿入される側(受け)を女とするようないわゆる異性愛の枠組みで語ろうとすることが、批判を誘発するようなセンシティブな問題を含んでいる。たとえば、異性愛を標準的な・通常の・正しい性愛として捉えて、同性愛をその派生物ないし逸脱として見る価値観があるのではないか?であるとか、そもそもの「男/女」を性交における「能動/受動」と同一視する固定的な異性愛観がよくない、などの批判。
そしてこれらがBL内部での問題にとどまらず、「百合BL」という比喩の使用によって、規範的な異性愛における「女性」の性役割のようなものが、ジャンルとしての百合にまで投影されるとすれば、百合側に立つ人間がそれを迷惑に思うことは頷ける。
また第二に、受け/攻めの問題。受けと攻めの分割は、BLにおいて多くの場合カップリングの前提条件になっている概念で、「攻め」が「性行為において挿入する側」、「受け」が「挿入される側」を表す。BLの文脈では、カップリングのどちらが攻め・受けを担当するか、ということが創作と消費において重視される(ただしそれに当てはまらない例もある)。
BLにおけるこのカテゴリーはある程度まで、非性交時の振る舞いやキャラクター性とも関連しており、ある人の嗜好について「(一般的に私の好きな)受けはこのような人格」「攻めはこのような人格」という言い方が成立する。
(「精神的な受け攻め」という概念もあるが、個人的には共有していない文化なのでこれには触れない。)
百合についても、受け攻めの分割はある程度共有されている(BLより傾向としては緩やかでこのような分割のない百合創作物も多いが)。ここでいわゆる「百合BL」と「百合」との間に衝突が起きるのだが、百合内部でもすでに攻め受け概念によって、攻め側である女性と受け側である女性についての多様なあり方の試行錯誤がなされてきたことを無視して、「女性」を一括りに「受け」とするような意味での「百合BL」という言葉は受け入れにくいという側面があるだろう。

5と6に関しては、ほとんど私自身の考えを述べてきた(つまり私自身もこういう点について問題に思わないでもない)。
「百合BL」を使おうとする側は、これらの点について一定の応答責任があるだろうし、こういうことを考えると、やはり「百合BL」「百合カプ」は別の言葉に置き換えたほうがいいのかなという気もする。

一応「百合BL」を使いたい立場からの反論というか擁護を述べる。
とりあえずひとつめ。これは軽い言い訳だけど、上記のような問題点が、百合にとって迷惑だという向きについては、そうは言っても、「百合BL」はあくまで「BL」文脈の言葉であって、この言葉の存在が実際的に百合文脈の価値観(ジェンダー、受け攻めなど)に影響を与えて、なにかを歪めるということはないと思うよ、という弁解ではダメかなあ。(百合の側のひとがそれで安心したとして、BL内部でそれを使うことが問題ではないということにはならないのだけど。本質的に問題が解決していないので「言い訳」)
ふたつめ。「百合BL」はあくまで比喩であるということ。
比喩には様々な種類があるが、基本的にはあるものを説明するのに、別のものの一つの性質を取り出して持ってくることで代用する方法だ。たとえば「彼はライオンのようにたくましい」とか「猫のように気まぐれだ」のようなもの。ライオン・猫には「たくましい」とか「気まぐれ」以外にも多様な性質があり、また個体によってはたくましくも気まぐれでもない、ということもありうるが、比喩においてはそういったことをすべて捨象する。あるいは「高校野球の全国大会」という意味で「甲子園」と言ったり。甲子園(球場)では高校野球以外の催しにも利用されることは当然だが、そういったことはとりあえず無視して「甲子園」という一言で「高校野球の全国大会」を代表する。
同様の捨象が「百合BL」でも起きている。「百合BL」の比喩の論理においては、一般に異性愛(のフィクションないし現実)において「男性が挿入する側・女性が挿入する側」であることを前提に、「そうではない事例もあるかも」を捨象して、とりあえずBLにおける受け(挿入される側)を女性の側に置く。しかるのちに、「百合」を「女性同士のカップリング」というところまで捨象して、先ほどの「挿入される側(〈BLの受け〉=〈異性愛の女性〉)」というメタファーとの連鎖によって、受け同士のカップリングが「百合」と称されるにいたる。異性愛・BL・百合それぞれにおける多様性はとりあえず捨象されている。
これは「百合BL」が問題にされている理屈と同じだ。では、なぜ(「百合BL」を擁護するという目的で)あえてくだくだしく述べ直したかと言えば、この「捨象」は(基本的には)あくまで比喩のための操作であって、そこで多様性が「とりあえず捨象」されたとしても、それらの多様性が(必然的に)否定されているわけではないということを言いたいからだ。
「百合」や「男女」から一つの特徴を取り出して、BLにおける「受け×受け」を説明したとしても、異性愛・百合・BLの(現実の、あるいは可能性としての)多様なあり方は揺らがない。そのはず。
(追記:本記事で言う「百合BL」の比喩操作において取り出される特徴は、本質的には性交における「受け」という立場とか、フィクションとしての「百合」における「女性」という性質のみで、その他のニュアンスとか、キャラ性は問題となっていない。「百合BL」という場合の「受け」は「女性的」なわけではなく、あくまで「受け」という性質によって異性愛の「女性」と、ついで百合の女性との置き換えが成り立っている。)
こういう弁明を加えた上でも、「百合BL」「百合カプ」だめでしょうか。
だめかもしれないなあ(「アジア人」「西洋人」の特徴を取り出して「怠惰な人間」のことを「アジア人」、勤勉な人間を「西洋人」と呼んだら差別だし、比喩のための操作と言ってもなにもかもが許されるわけではない)。

私は最初に述べたように「百合BL」という言葉を(頻度は高くないけれど)使わないでもないし、そういうものに対しての「萌え」があるので、できれば見逃してもらいたいと思っている。
個人的にはこの意味での「百合」は、BLについて言うだけでなく、女性同性愛という意味での「百合」フィクションについても、ABとCD前提のカプBDを「百合BL」からの類推で「百合カプ」と認識したりするし、ついでに言うと、男女カプについても(というのは私は男女カプにも受け攻めを適用するからなのだけど)その複数のカプにおける「受け」(理論上はこれは必ずしも女性を意味しない)同士の組み合わせを(女性同性愛とは異なる意味で)「百合」と認識してもいる。あるいは理屈で言えば、たとえば男女カプの「受け」と女女カプの「受け」の組み合わせもその意味で「百合」だ(実際にはこのような組み合わせに遭遇したことはないが、可能性としてありうる)。
そういう広がりを持った意味での「百合カプ」を、できれば今後も使い続けたい。
どうしてもだめなら、「受けカプ」などの呼称で代用できないこともないのだけれど、言葉のイメージ喚起力が違うんだよなあ。