2018年4月18日水曜日

4月18日の日記:倉田百三『法然と親鸞の信仰』、「カズオ・イシグロ 文学白熱教室」

午前中は雨で寒かったが、午後からは晴れて暖かくなった。

昼食後に昼寝。
起きてから、書店に買い物に行く。今日で閉店。
先日講談社学術文庫版から新版が出た倉田百三の『法然と親鸞の信仰』という本を買ってきた。
倉田百三は100年以上前に『出家とその弟子』という親鸞が主役の戯曲を書いた作家で、近現代の人間くさい親鸞像にかなり影響を与えた(と考えられている)人物。私は嫌いです。
『法然と親鸞の信仰』は初見だけれど、後半の親鸞を扱った部分を読んだ限りの印象では、嫌いな内容と感じた。歎異抄重視しているあたりが。しかし、倉田百三をどれだけ嫌っても(嫌おうとしても)、自分の信仰が倉田百三に近い(歎異抄重視的な、あるいは清沢満之的な「信仰」)ことは否定できないだろう。
(そういうものを否定したい、そこから逃れたいと思ってはいるけれど、どこまでいっても逃れられない。そもそも近現代から逃れて「前近代」に帰ろうとするのは愚かしい。)
倉田百三が「弥陀の本願」を「天皇の勅命」のような、不合理な宗教的・絶対的要求としている箇所を見つけた(264ページ)。それから、「宇宙の理法が我を通して運行する」「念仏者の内面では、喫茶、喫飯にも、応接にも、借金とりを追い返すにも、全宇宙の力で行っている」という表現もあった(283〜284ページ)。あるいは、
日本の満州に対する関係のごときもマルキシストおよび人道主義者は単に帝国主義の侵略として非難し去るけれども、日本民族の生存上そうせずにはおられないもっと深刻な事情のあらわれなのである。(略)念仏申さるるように生きるという道は、自分の位置が搾取者であろうと、被搾取者であろうと、ただ念仏申さるるよう生きるのである。(282ページ) 
こういうのはかなり面白い。善悪の価値判断をする能力を持ちながら、すべてを弥陀=宇宙の理法=天皇の勅命に委ねて、責任を放棄する思考。この本が書かれたのが正確にいつなのか知らない(昭和初年から10年代ごろと思う)けれど、天皇と弥陀を同一視する浄土真宗の戦時教学の問題がすでにあらわれている、というか近代的な(清沢満之的な)真宗信仰自体が、最初から政治的・社会的問題を問うことができず、むしろ現実の体制に積極的に随順する性質のあるような信仰なのだろう。たぶん。(清沢満之は、私の記憶の限りでは「飢えて死ぬのもよい」という意味のことを書いていたけれど、それは個人の決意としては立派かもしれないが、現実に飢えて死んでいく人にとって無意味であるどころか、その現実を唯々諾々と受け入れよという邪悪な命令として働きうる。)

夕食後に、かなり以前に録画した「カズオ・イシグロ 文学白熱教室」という番組を視聴。カズオ・イシグロが自作の経験から小説について語る番組。昨夜前半部を観たのでその続きから。おもしろかった。
ふーんと思ったのが、カズオ・イシグロは小説のアイデアを思いついたら、それを2、3のセンテンスに表現できるか、そして書き留めた文から小説が拡げられるかを検討してみることにしている、という話(ちょっと違ったかも)。

先ほど猫にたくさん噛まれてたいへんだった。私を噛まないで。