2017年6月1日木曜日

6月1日の日記:レジュメ、アイスモナカ、エロマンガ先生と「家族」対「好きなひとのお嫁さん」

雨が降ったり止んだり晴れたりまた降ったり。
先日に続いてメモとノート作り。この段階は作業としては一番楽しいところ。これらを素材として文章化する段階になって苦しみがやってくる。文章化は自我が論理に攻められる過程。
レジュメに書く内容はかなりはっきりしてきたが、まだ材料が足りない。主張の根拠になる一次資料が全くない。エビデンスとは。
一次資料になりそうなものは見当をつけているのだけど、参照が面倒な場所(物理)にあって、先延ばしにしている。明日がんばる。

お昼にコープ(生協)のアイスモナカを食べた。すごくおいしかった。なぜおいしいのか考えたのだけど、最中の内部のバニラアイスに微細な気泡がたくさん含まれていて、それが適度なかたさ/やわらかさと綿のような食感、口溶けのよさを生んでいるのだと思う。アイスモナカはよい食べ物。幼時、家族と公園に行った日に食べさせてもらった記憶。

夕方にエロマンガ先生#8「夢見る紗霧と夏花火」を再視聴して、それから#8ラストの「家族」をめぐる会話が気になって#1「妹と開かずの間」を観た。エロマンガ先生=和泉紗霧さんと和泉マサムネ先生とは兄妹とは言っても義理の兄妹だし、最初から二人は性愛の意味で愛し合っているように見えるし、妹萌えとか近親愛はブラフで普通の男女愛じゃん、と思っていたのだけど、そうではないんだなということが#8ではっきりしてきた。
「やっとわかった。兄さんは家族が欲しいんだ」
「うん、俺は家族が欲しい」
「私は、兄さんを家族だなんて思ってなかったし、兄さんの妹になんてなりたくない。でも、しょうがないから、ちょっとだけ妹のふりをしてあげる」
(#8「夢見る紗霧と夏花火」)
「……家族なの? 私たちは」
「そうだろ。こうして一緒に暮らしてるんだからな」
「……そう。私はそう思ってない。一緒に暮らしていることを、家族とは言わないもの」
「……?」
(#1「妹と開かずの間」)
和泉先生が初めて「妹」の部屋に入った#1と、#8の打ち上げの疑似家族的な共食の後に交わされる、対応・反復する家族をめぐる問答。
#1の時点では、和泉先生の台詞は単に、ヒロインの望む言葉(恋人)を与えないラノベ主人公的言動かと思っていたのだけど#8ラストの吐露によって、それが文字通りの意味での本音だったことが了解できる。そういう和泉先生の感情(家族への執着)の側から二人の関係を追ってみると、「兄妹 」がブラフなんじゃなくて、むしろ和泉先生から紗霧さんへの異性愛の方がミスリードだったんじゃないかと思えてくる。
そもそも最初から和泉先生はちょっとへんで、いくら義理の妹で、そのうえ運命的な恋の予感を感じているのだとしても(#1冒頭の演出はそういう風に見える)、一度顔を合わせて短い会話しただけの相手が、それ以来一度も再会することなくそれでいて一つ屋根の下に二人きりでずっといるなんて、普通なら気まずくて気持ちの悪いシチュエーションだと思う。でも「家族」に執着している和泉先生にとってはそれで全然よくて、「家族」である誰かが同じ家に生きているということ、それだけでその「家族」を愛する理由になるのかもしれない。たとえわがままな引きこもりでも。むしろ「妹」が引きこもりであることは、どこかよそに行って死ぬ可能性がない分、安心できるのかも。だから部屋から引きずり出そうとはしないし、学校に行かせようとも思わない。それで満足している。そして現在の「家族」としての生活をいつまでも守りたいと思っている。はっきり言って気持ちが悪い。
和泉先生にとっては、自分の「家族」であるということは、それだけで愛する理由になる。だからたとえば1年前に実の父親が連れてきたのが紗霧さんではない別の人間だったとしたら、たぶん和泉先生はその「妹」を「家族」として受け入れ、現に「妹」である紗霧さんを愛しているように愛しただろう。そういう事実がたぶん和泉紗霧を苛立させる。
「兄さんの妹になんてなりたくない」と言う紗霧さんは、小説家としての和泉マサムネ先生にずっと昔から恋をしていて、その彼と一つ屋根の下で暮らすことになったことに運命を感じている。「やっぱり、兄さんが和泉マサムネ先生だったのね。(…)同じ名前だなって思ってただけ。本当に同一人物だなんて、どんな確率なの」

紗霧さんは#1からずっと兄さん=和泉先生を「異性」として意識しているそぶりを見せている。それに対して和泉先生は妹=紗霧=エロマンガ先生の頭を撫でたり、自分より年少の「家族」として交流しようとする。
和泉先生は年少の「妹」にエッチなイラストを描かせていたことを謝罪するが、「兄さん」を異性として意識しているエロマンガ先生は「エッチ」という言葉に反応して切れる。兄さんのバカ!にぶちん!ラノベ主人公!
うーん葛藤!
私は、このアニメどうするのかなと心配していたんですよ。
両思いが#4の時点ですでに確定してるわけだし、和泉先生が勘違いでフラれたの思っているのだとしても、その勘違いを引っ張るだけでこれからラブコメ続けるの?どうなんだそれは、と思っていました。
でもエロマンガ先生のラブコメとしての核心は、どうやらその勘違いだけではなくて、「家族愛」と「性愛」の排他性、「妹」を一方では異性として見ながらもそれよりも「家族」になりたい和泉マサムネと、「好きなひとのお嫁さんになりたい」から「家族」になんてなりたくない和泉紗霧さんとの対立にあったんですね。擬制としての近代家族と、男女の自由恋愛イデオロギーと、肉体と感情をもった実存との相克・三つ巴じゃん。やるじゃん、『エロマンガ先生』。
昨日の日記では「エロマンガ先生以外へのルートには進まなそう」とか「悪く言えば緊張感にかけるし、よく言えば安心して観られる」と言ったけど、この調子だと和泉先生とエロマンガ先生の「恋愛」がどうなるのかすらわからないのでは?と思い直す。和泉先生は紗霧に妹=家族を求めるし、エロマンガ先生は兄さんを恋愛対象として見つつ(「私は好きなひとのお嫁さんになりたい」)も一時的に家族を演じる(「ちょっとだけ妹のふりをしてあげる」)。同原作者の前作『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』も、解釈次第では「家族愛」が「性愛(近親愛)」に勝ったとも言える(兄は最後まで妹を性愛の対象として見てなかったかも)し、『エロマンガ先生』も和泉正宗−紗霧の間で最後に勝つのは「家族愛」で、「異性愛」の対象としては和泉先生は他の任意の誰かを選ぶのかもしれない。エロマンガ先生がどんなに和泉先生を愛しても、和泉先生は妹=紗霧=エロマンガ先生を家族として愛するがゆえに、その愛に気づかないのだ。ラノベ主人公的にではなくむしろ主体的に、あえて気づかないふりをする。わはは。
ところで、山田エルフ先生は売れっ子作家だからてっきり学校なんて行ってないのかと思っていたけど、ちゃんと高校?中学?に籍を置いていて、学生をやっているようなので安心しました。「てか、どうしたの、今日のあんた素直じゃない? エルフ先生に惚れちゃった?」「惚れてない。けど、おまえが俺の姉貴だったらよかったのな、って」「……(デコピン)」「いてっ!」「……あんたみたいな弟いらないわ。ふ、ばか!」って一体何なんだ。なんなのだいったい。

夜は先日途中まで観たプロフェッショナル仕事の流儀の続きを観た。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ。猫が若い大型犬に乗ってフミフミする画を撮れてご満悦の岩合さん。プロフェッショナル仕事の流儀は最後にかならず困難が起きて、それが解決して、テーマ曲が流れて終わるな、と思った。