2016年1月31日日曜日

日記

イベントに行きました。
人々から、本を貰ったり、グミを貰ったりしました。
ありがとうございました。

わたわたしてて、本貰ったうえにお代まで貰ってたこと気づかなかった。
いつも本当にありがとうございます。
以前いただいた本も何度も繰り返し読ませてもらっています。

途中で抜けだして隣の会場に水泳の本を買いに行くなどしていたら、お金を使いすぎて、参加したイベントの方に使うお金がなくなってしまったりしました。

今日はつかれたのでこれだけです。
お代にアイカツカード持ってきたひとはいませんでした。

2016年1月30日土曜日

日記 115(E5・6)


1月31日 N17b
コピー本 新刊『浄慧上人入定のヿ』 既刊『海老・妹・アイス』。
予価100円(たぶん)、または任意のアイカツカード1枚と交換。
明朝印刷できれば持って行きます。
遅刻します。

前回の日記の数日後、またひどい風邪を引いて寒いし痛いし食事はできないし死ぬかと思った。だけど治った。よかった。

2016年1月14日木曜日

日記

しばらく風邪を引いていて、今日やっと調子がよくなってきたので、散歩がてらレンタルビデオ屋にDVDを返しに行った。
近所の国道を超えたあたりからぼーっとして、なんとなく普段と違う道に入り込んでしまった。
よくわからないはじめての遊歩道だったけれどなんとなくわくわくした。
すぐに道がひらけて学校が現れた。なんだか見覚えがあるなあと思っていたら昔通っていた中学校だった。そうかこれはこんな場所にあったのか、こんな形だったのかとしみじみ思った。
ビデオ屋で新しくアイアンマン2とマイティ・ソーを借りて帰った。
今日の歩数は1万1千歩。まずまず。

2016年1月13日水曜日

日記

やること。
・借りてきた本を読む
・机と本棚のいらない書類を整理する
・部屋で習慣にできそうな筋トレメニューを組む。
・ウォーキングをする。一日の平均歩数が6000歩を上回るように。

2016年1月12日火曜日

寛容についてのメモ

Twitterで某氏のつぶやきを見て。いい加減な文明論もどき、文化論、印象論を。

我々の日本社会にはどうしても日本的なだらしない「寛容」はあっても、西洋近代的な痛みを伴う"tolerance"は存在しない。
それは例えば「日本人は多神教だからキリスト教にもイスラムにも寛容」という典型的言い回しに現れている。
この決まり文句には、異なる文化の存在、他者が存在することへの想像力が欠けている。
Toleranceには「他者」観念が不可欠だ。
我々の日本社会には他者が欠如している。

日本にはなぜ他者観念が、そしてtoleranceの思想が生まれなかったか。
あるいはなぜヨーロッパにはそれらが生まれたか、と問う。

カトリック・プロテスタント間の緊張による歴史的偶然というのが一つの答えだろうけど。
しかし事実として異なる集団との抗争を経験したのは一人西洋近代のみではない。
しかし他者を見出したのは彼らだけだった。何故か。

そこには、「隔絶した神」の観念に取り組んできた西洋の思想的風土・歴史が関わっていると見たい。神、他者。最終的な判断が神に委ねられるということ。
「誰が彼らの審判者となることができるか? 神のみ、と私は答える。何故ならば至高の為政者と人民との間の審判者となる者は地上には存在しないからである。」

翻って日本の思想史を見れば、というか、たぶん西洋以外の場所に「隔絶した神」を見出すことはできない(?)。
神仏は世界内的存在であり、現世を生きる我々との質的差異はない。
後略。後略。