2つの映画を鑑賞した。『ゴッホ:最後の手紙』と『ブラックパンサー』。
『ゴッホ』はフィンセント・ファン・ゴッホを題材にした油絵によるアニメーション映画。
おもしろかった。
100人以上の画家がゴッホ風のタッチで1コマずつアニメを描いたという前知識だけで、ストーリーはまったく知らずに観たので、ゴッホの死後から映画が始まったことに驚いた。なんとなくゴッホが主人公で、その生涯を伝記的に語るのかと思っていたけれど、まったく違って、実際には郵便配達夫のおじさん(あのおじさんです)の息子アルマン・ルーランが主人公で、彼がアルルからパリ、ゴッホが最後に過ごした村へと旅しつつ、その死の真相を探るという筋。
ゴッホについて人々が語るエピソードがそれぞれ矛盾していて(ガシェ医師と懇意だった、不仲だった。ガシェの娘を恋をしていた、していなかった。精神はすでに安定していた、病気だった。自殺だった、殺された)、なんだか『羅生門』のようであった。
主人公のルーラン自身は最後にガシェから聞いた話を真実として受け入れてアルルへと帰郷する(ように見えた)が、実際のところその語りを信じていいのかなと最後まで疑問だった。そうやって疑って観るのが、この映画の正しい鑑賞態度なのかどうかはわからないけれど。少なくとも私には、どこかサスペンスじみたところがあると思える作品だった。
油絵のロトスコープで描かれた画面はさすがに美しくて、話抜きに映像を観ているだけでも楽しい。ところどころで場面の背景がゴッホ自身の作品のオマージュになっていて、それによってゴッホの足跡が各所に残されているのがわかるという仕掛けになっていた。
『ブラックパンサー』は上映中から気にはなっていた作品。非常におもしろかった。過去に観たマーヴェル・シネマティック・ユニヴァース作品の中でも随一のおもしろさ。映像的にもストーリー的にも光っていた。
『シビル・ウォー』で先王であった父親を失い、その跡を襲って新たにワカンダの王となったティ・チャラ=ブラックパンサーが主人公。ティ・チャラはブラックパンサーとして国家の仇敵である密売人のクロウを追っているうちに、自国の王家にゆかりの品を持つ男(キルモンガー)がクロウ方についているのを目撃し、それをきっかけに先王の時代に隠された血塗られた過去を知ることになる。うんぬん。
お気に入りのキャラはンバクとオコエ。(ンバクは字幕では「エムバク」と表記されていたけれど、どちらかといえば「ンバク」に近い発音で呼ばれていたように聞こえたので、個人的に「ンバク」と表記します。MCUでは似たようなケースは他にもあって、例えばソーの武器の字幕表記は「ムジョルニア」だけど、役者たちの発音は「ミョルニル」に近かった。字幕の方はおそらく既存の漫画版の邦訳の用語に準拠しているのかなと思う。)
オコエはやばいかっこいいですね。槍すごい、強い。放映当時にオコエオコエと評判だったのを記憶しているけど、それも納得。序盤のクロウ追跡シーンで敵方の銃による攻撃を「野蛮」と評した直後に、真の文明を見せてやるとばかりに槍(おそらくヴィブラニウム製)を投擲するのが笑えた。
ンバクは、ああいうキャラ好きなので、もうずるい。言わばジャイアンみたいなものなのですが、乱暴で、平時には主人公と敵対しているのに、いざという時に助けに来てくれるのがアツすぎる。「偉大なるゴリラ」という敬称もやばい。
ストーリー面に関しては、一般にヒーローもののドラマツルギー上のキモは主人公のアイデンティティ上の葛藤とその解消にあると思っているのだけど、その点がこれまでのMCU諸作品と比べてもとても優れていた。
王家の人間としての主人公ティ・チャラの葛藤は、ワカンダという国が抱える問題とそっくりそのまま重なっている。先王による自分の弟(ティ・チャラから見れば叔父)の殺害とその隠蔽、その遺児の放棄という黒い過去。外の世界の悲惨を知りつつも自国の安全を優先し続けるワカンダ国の歴史と現在。それらのすべてがかつての遺児、つまり今までその存在を誰にも知られていなかったが、正統な王位継承権(王座を賭けた決闘への挑戦権)を持つ従兄のキルモンガーの出現によって露呈する。
ティ・チャラが真実を知って、先王時代から王家に仕えるズリに「何故叔父の埋葬もしなかったのか、なぜその子どもを置き去りにしたのか」と問い詰めたとき、ズリは"We had to maintain the lie"「私たちは嘘をつき続けなければならなかった」と答える。最初これはWe have to〜と現在形で、つまり現在のこととして語っているのかと誤解したけれど、検索してみると正しくはhad to〜らしい。ただ台詞の時制はともかくとして、実質的には先王たちの欺瞞は、決して遠い過去の出来事として過ぎ去ってはおらず、そのままの形で現在にのしかかってくる。むしろティ・チャラは積極的にその欺瞞に加担することになる。
キルモンガーが眼の前に現れた時、ティ・チャラは彼の正体を知っているのに、それを口にすることができない。むしろキルモンガーに喋らせまい、一族の者としての彼の真の名を語らせまいとする。先王のしたことを責めるティ・チャラ自身も、to maintain the lie 欺瞞を維持してしまうのだ。そうしなければ、現在のワカンダ国そのもの(欺瞞を隠していた王の息子である自分、ワカンダ国の後ろ暗い繁栄)が否定されかねないがために。
この時点でワカンダ国も、その王たるティ・チャラも、キルモンガーに対して主張できる正しさを失う。ティ・チャラは正当な決闘でキルモンガーに倒され、国を奪われる。
上映中の評判で、それまでのMCUはヴィラン(敵役)の造形が甘かったのに対して、『ブラックパンサー』では主人公との敵対のありようがより本質的なものになっているとの評があったと記憶しているが、まさにそのとおりだったと思う。傾向としては過去のヴィランはわかりやすい悪であり、簡単に否定できるものだった(そんなに単純に対比できるか? どうだろう。今までのヴィランもそんなにひどくなかったかもしれないけれど、とりあえずここでは、話を進めるためにそういうことにしておこう)。それに対して、キルモンガーの存在、語る言葉、思想はティ・チャラにとってクリティカルなものであり、むしろ彼の存在そのものがティ・チャラの正当性の否定として機能する(彼は先王に父を殺害され隠匿された王子であり、ワカンダの現状を憎み、世界を変えるべきだと訴える)。キルモンガーはワカンダ国、ワカンダ王にとっての鏡像であり、正視したくない影の部分だ。
物語上結局はティ・チャラは復活し、再び王として従兄であるキルモンガーを打ち破るが、キルモンガーの思想はティ・チャラの中で完全に否定されることなく、部分的に取り込まれてエンディングでの選択(ワカンダの技術の世界への開放)につながることになる。
こうした主人公のヒーローとしての成長の過程が、国家社会という大きな枠とつながっていて、しかもその葛藤と解消・あるいは発展が敵との対決そのものと有機的に結びついている、ということが作劇として実にエレガントだし、賞賛に値する。
要は最高でした。続編の『インフィニティ・ウォー』も楽しみです。