2018年8月5日日曜日

8月5日の日記

朝からやや頭痛。
図書館へ『プランク・ダイヴ』を返却してから、書店で村上春樹の『職業としての小説家』を購入。
その後、洋食屋でハンバーグを食べた。ハンバーグは柔らかくてフォークに刺すと崩れてしまうほど。美味。ご飯もとても美味しかった。県内に住む有名なロック歌手のサインが飾ってあったのでお店の方に話を聞いたところ、奥さんの実家が近所にあるとのことだった。

午後は昼寝。部屋が暑くて少し汗をかいたものの疲れが取れた。
おいしい食事と昼寝のおかげで、少し体調がよくなった。

このところ差別や社会的不公正に関わる、気の滅入るニュースが多かった。
主なものは杉田水脈さんのLGBTに関する過去の発言や、東京医科大学が女子の受験生の点数を一律に減点していた問題だ。
しばらく前に前者の報道が盛んになり、それに関する様々な言葉を見聞きする(というか主に見る)うちに、ひどく打ちのめされてしまった。ずっと落ち込んでいたと思う。
もちろん、私たちの住む社会に強烈な差別があることを知識としては知っていた。しかし知識として得ていることと、それがグロテスクな形でむき出しになっているのを見ることとでは、精神に与える影響がまるで異なる。グロテスクな言説が、政権与党の中から出てきて、その承認を得ていると考えることによる精神へのダメージは思っても見ないほど大きいものだった。
私はおそらく、この社会が公正ではないということを知りつつも、それでも何かを信じていたのだろう。そしてそのような信はまったくの虚構に属するものだと思い知らされ、信じていた美しい世界が根こそぎ失われたような気がした。
今もそういう気持ちがないわけではないけれど、それでも少しは落ち着いて、前向きな気持ちになっている。
それは変な話だけれど、二番目の気の滅入るニュース、入試での女子差別に関する人々の言動を見聞きしたおかげだった。
前者のニュースの時点では、私は杉田水脈さんの言説がある一定範囲で(ひょっとしたら社会の大部分で)許容されていることにショックを受けていた。ところが後者のニュースの時点では、むしろそれを決して許容せず、不正として糾弾する多くの人の声があることに注目することができた。それは私の中で大きな変化だった。
最悪な状況とは、たぶん、差別や不公正が目の前に現れることではない。本当の最悪とはそれらが正しからざるものであることに誰も気づかず、誰も声をあげない、あげることができないことだ。
(東京医科大学の受験に関する不正が、たとえば数十年前に明らかになっていたら、もしかすると現在なされているような大きな批判は聞かれなかったかもしれない。それらは仕方のないことだ、当然のことだという声の方が大きかったかもしれない。誰もそれを問題と思えなかったかもしれない。)
今、私たちは不正な、不平等な出来事や制度が目の前に存在していることを認識し、それを指差し、叫ぶことができる。そのこと自体がきっと将来の希望になり、現在を変えていく力になる。そう思える。
奴隷や児童労働は、まだこの地球上から完全に消え去っていない。しかしそれらが当たり前のように存在し、誰もがそれを悪と認識しない時代はおそらく過ぎ去った。
私たちの住むこの社会は自由や平等からは程遠い。ずっとずっと遠い。しかし今現在ある不正も(それはまだ社会の全体から不正として名指されるには至っていないかもしれないが)、やがては過去のものとなるだろう。そして現在ある不正を過去のものにする第一の原動力は、不正に対する「これは間違っている」という個人の感情であり思想であり言葉だ。

怒りの声が人を救うことがあるということを今回の件で私はつくづく思い知った。
社会も個人も変わっていけるということを今は信じたい。