2017年6月25日日曜日

6月25日の日記:中沢新一の築地論

中沢新一さんが今日(2017年6月25日)の朝日新聞の読書のページに、3冊の本を紹介しながら築地市場について語っていたのを読んだ。「人間と自然が共存する聖域」という見出し。(web版はこちら
私は築地市場には行ったことがないし、いわゆる築地問題になんらコミットしていないので築地問題そのものについて何かを言う立場にないのだけど、この文章は悪い意味での「ポエム」だなあと思った。意味ありげな表現はあるけれど伝達すべき内容がないように見えるという意味で。そういう意味でのポエムじゃないとしたら、宗教的プロパガンダと言おうか。中沢さんの記事は中身がないか、読み取れるとしたら私的な宗教的メッセージが含まれていた。
中沢さんの文章によると、築地市場とは「人間と自然が一体となり、のびのびと活動」する場であり、都の管理する公の市場でありながらそうしたことが可能になったのは「この市場が一種のアジール(聖域)として、外の世界からの影響を直接受けにく」かったかららしい。
ここで言う人間と自然が一体となるとか、築地市場がアジールであるという言葉は私にはその意味がよくわからない。たとえば、漁業資源の持続的な利用がそこで行われているという意味で「人間と自然が一体となる」と言っているのだとしたら、理解ができるけど、たぶん文脈などから推測するに、中沢さんの言っていることはそういうことじゃない。むりやり読むとしたら、中沢さん的なある種の宗教の方面があるかなあと思う。
中沢さんの自作のユーカラ(『芸術人類学』117–127ページ。ユーカラというのはアイヌの叙事詩のこと)では、鯨の神さまが肉として人間に食べられて、人間も鯨もよろこぶというお話が語られている。なので、あるいは記事で言う「人間と自然が一体となる」というのもそういうことなのかなあとは思う。けれど、はっきりとはわからない。少なくともこの文章だけからは受け取れなかった。でもだとしたら、それは中沢さんの宗教的というか神話的というか、そういう独特な理解の仕方であって、築地の魚が人間に食べられて喜んでいるという主張を公の議論に持ち込んで何かを説得しようとするのは、ちょっとどうかと思う。(どうかと思うというのはうまい手段じゃないと私が感じるという意味)
築地市場アジール論の方はもうちょっと意味不明で、アジールというのが比喩なのだろうということはわかるけれど、私には築地市場とアジールとに似ているところがあるようには思われないから、不適切な比喩なのではないかと考える。アジールというのは、外部の法律が適用されない、そこに逃げ込むと犯罪者が罪に問われないような空間のことを言うはずだけど、築地市場がそんな無法地帯だったというような気はしない。(もっとも私は築地を知らないので、内部の人間や詳しい人からしたら「いや、築地はやっぱりアジールなんだよ」ということになるのかもしれない。)
現実的に考えると、市場内部の方針やルールは一定程度内部で決定しているよ、という意味かなとは思うけれど、だとしたらアジールという比喩はちょっと神秘めかしすぎてる(「ポエム」だ)。治外法権的な高度な自治が与えられているはずもないし、内部のことを内部で決定している程度の意味だとしたら、それは現代の他のどんな場所においても程度問題的に当たり前の話なのでは? 築地においてなにが特殊なのかちょっとわからないし、それによってどのような特殊な事態が生まれているのかもやはりまだわからない。(でもやはり私は築地を知らないので……)
中沢さんの文章全体の主張は、築地市場には価値があるから保全するべき、というもので、それ自体は変な主張じゃない 。たぶん築地市場には文化的な価値があるのだと思う。でも中沢さんの文章からうかがわれる(意味があるとしたらこういう意味なのだろうと私が想像した)文化的・宗教的価値は、おそらくなんらかの内輪の世界の価値で私には伝わってこない(価値というのは常に内輪のものかもしれないけれど、より広い範囲に共有される価値ではないと思う)。私としては「人間と自然の共存」という文化的価値観を共有していないし、もし私が何かを決定する立場だとしたら、この情報では築地を残すという方向に行けないよなあと思った。

中沢新一さんの築地論は下記の対談でも述べられているようなので後で読む。もしかしたらこちらを読んだら中沢さんの言っていることがよくわかるようになり、上で私が言ったことを取り消したり修正したりしたくなるかも。紹介されていた三冊の本も読んでいないし。
築地市場を「第二の新国立競技場」にしてはいけない(中沢 新一,森山 高至) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

長くなってしまったので今日の日記はこれだけ。