2019年7月22日月曜日

7月22日の日記:三体、犬婿入り、ローマ人の物語

一日本を読む。

小説。
昨日から劉慈欣の『三体』を読み始めた。日本語版は値が張るし単行本だったので(大きな本は置き場所がない)、ケン・リュウによる英訳(The Three-Body Problem)の電子書籍版を買った。Wikipediaによれば早川書房刊の『三体』はある意味では英語版からの重訳のようなものらしい(中国語からの邦訳を、大森望氏がケン・リュウの英訳を参照しながら手直しをした)ので、それなら英語版を読んだほうがより中間項が少ないかもしれない。
中身はまだ全然序盤で、ヒロイン(?)が山の上の基地にやってきて謎の兵器が作動するのを見届けたところまで読んだ。話の核心的なところにはまったく入っていないし、どんなSF的アイデアがこれから先繰り広げられるのかわからない(私はメインテーマの「三体問題」というものがなんなのか知らないし)けれど、冒頭の文化大革命の学生たちによるインテリ教授の吊し上げからのリンチ殺人の情景や、内モンゴルでの森林破壊から始まる主人公(虐殺されたインテリ教授の娘)の政治的転落の流れの描写には引き込まれるところがあった。
劉慈欣の作品は『三体』以前に、始皇帝と荊軻にまつわるSF短編をつい先日ネット上で読んだきり。その小説は秦の軍勢を回路にした巨大なコンピュータを用いて円周率を計算する(!)というすごいお話なのだけれど、『三体』の始めの方にも人間の群れの動きをコンピュータのCPUに喩える箇所があって、それが著者のよく用いるイメージなのかなと思った。

先週の月曜から読んでいた多和田葉子の短編集『犬婿入り』を読み終えた。「ペルソナ」と表題作の2編。「ペルソナ」は1週間かけて、「犬婿入り」は今日の夕方に読みはじめてあっという間に終わりまで読んでしまった。
「ペルソナ」はドイツで弟と暮らしている日本人留学生の女性が、韓国人男性に対する差別的な事件をきっかけに、人種や民族にかかわる価値観(あるいは感覚?)を自分の弟とも、他の日本人やドイツ人とも共有できないことに気づき、どこにも馴染めぬまま街を放浪する話。自分の家族の差別に対する感受性の鈍さ(あるいは積極的な差別的言動)に呆然とする恐ろしさが描かれていた。読んでいて嫌な気持ちになる短編だった。タイトルにもなっているペルソナ(お面)が最後に出てくる。ラストシーンは映像的だったけど、作品全体の中で見たとき、比較的気に入らない箇所かもしれない。それよりも弟とのあれこれや、主人公が混乱しながらうろうろしているシーンが面白い。
「犬婿入り」は要約しようと思ってもできないなんだか変な話だった。多和田葉子の小説は一般に要約に向かない。「話」があってないようなものなので。突然に家にやってきた犬のような(とは書かれていないけど、たぶんそうなんだろう)男に、すごい力で身体を持ち上げられて肛門を「ペロンペロン」と舐められるシーンとか、非現実的でありながら妙にイメージ喚起力の高い場面の連続に夢中になった。「ペルソナ」が嫌な小説なのに対して、「犬婿入り」はユーモラスで笑える。どちらが好きかは一概に言えない(でも「ペルソナ」の方が好きかも)けれど、読んでて楽しいのは「犬婿入り」でした。

『ローマ人の物語』文庫版の18巻(悪名高き皇帝たち[二])も読了。前巻からのティベリウスの治世と、後半はカリグラの短い生涯について。
塩野七生氏は全体に「一神教」(ユダヤ教、キリスト教)に敵対的で、「多神教」を称揚するところがあるよなあと改めて感じることの多い巻だった。必ずしもはっきりとそう述べるわけではない箇所でも、「多神教」のギリシアやローマ文化が健全なものであり、「一神教」を害の多い迷信と思っているのだろうということがありありと感じられる。実際に、ユダヤ総督のピラトによる許可のもイエスがと処刑されてキリスト教が誕生したことについて、ピラトは間接的にローマに害をなしたと評している章もあった。
多神教=寛容、現世的・現実的、健全etc.のような捉え方(そして一神教がその反対のネガティヴな特徴を有する)は日本の知識人にかなり広く見られるもので、そこでいう多神教というのは古代を指すのはもちろんのこと、日本人の信仰も含まれている。いかにギリシア人ローマ人が(ユダヤ人に比して)すばらしかったかを述べることで、ナルシシズムにも役立つのだろう。

「悪名高き皇帝たち」はちょうど半ばのところだけど、カリグラの死で内容的には区切りがついたので、明日からは先日新訳?が発売したサルスティウスの『ユグルタ戦争 カティリーナの陰謀』を読もうかと思う。時代はカリグラから少しさかのぼることになるが、カエサルの時代のことを忘れないうちに読んでしまいたい。