2018年9月2日日曜日

9月2日の日記:バッグ、ケンタッキー、カレー、仮面ライダージオウ、憂い顔の童子

やや体調悪い。風邪っぽい感じ。昼寝で回復。

注文したバッグが届いたとの連絡があったのでお店に受け取りに行った。
実物を見てみると思っていたのと相当に印象が違って、ありていに言えばちょっとがっかりした。身につけるもののネット通販は難しい。

お昼はケンタッキーフライドチキン。オリジナルチキンとレッドホットチキン。
辛いチキンが好きなので、限定の味で販売しているときには必ず一度は食べに行く。同時に辛いものや温かいものが苦手な体質(過敏に反応してしまう)なので、顔から汗や鼻水や涙を流しながら食べることになる。難儀。

夕食はインドカレー。
インドカレーにはアクを取るという工程があまりないのでは?という気付きがあった。少なくとも、インド風のカレーとして今まで作ったカレーのレシピにはアク取りはなかったと記憶している。スパイスとともに何もかも煮込んでしまうのがインド式かもしれない。

今朝から始まった『仮面ライダージオウ』という番組の第1話を観た(さいしょの数分は見逃した)。なかなか面白そうだった。
Twitterで「詰め込みすぎ」という感想も見たけれど、むしろコンセプトを過不足なく盛り込んでいてよくできていると思った。(こういう長い番組の第1話を観て「これがストーリーの核だ」と思ったものが、そのままそれに続く話数でも引き継がれていくとは限らないのですが。)

『憂い顔の童子』に「読み直す」(リリーディング)という言葉が出てきた。
これは憂い顔の童子で初めて出てきた言葉だけど、前作の『取り替え子』以来一貫して重要なキーワードであるはず。あるいはある時期以降の大江健三郎作品全般に重要な。
大江健三郎の小説は、基本的に何かを読むことでできている。その何かとは文学作品やその研究書であったり、あるいは様々な事件や、周囲の人間の言動、自分自身の過去であったりする。
『取り替え子』では主人公の古義人は、友人の吾郎が残した録音との対話をすることで吾郎の意図を読み解くし、その過程から吾郎の死の意味を読み解こうとするし、また吾郎の残した映画の絵コンテを文字通りに読む。最終章では妻の千樫がモーリス・センダックの絵本を読むことを通じて、自分自身の生と兄の吾郎のことを読み直す。
大江健三郎にとっては何かを比喩的にであれ文字通りの意味にであれ、「読むこと」「読み直すこと」が重要で、そしてそれらは小説を書くということに関しても大事に意味を持っている。大江健三郎は、小説を読むことと書くこと、あるいは小説の読者と作者とは、小説というものを間に挟んで向かい合っているのではなくて、むしろ同じ側に並び立って小説というものに向き合っている、という意味のことを言っている(はず)。読むことと書くことは不即不離の関係にある。
大江健三郎にとっては、あるいは大江健三郎の小説においては、小説を書くということは常に読むという行為を伴い、真に読むということは必ず書くという行為を引き起こすものである、のだろう。

夜中になってねこがめちゃくちゃに甘えてきた。膝に乗ってキスをしてきて、そこまではよかったけれど、だんだん興奮してきて噛むようになった。目に入れても痛くないけれど噛まれると痛い。
ねこを通して愛ということを学んでいる気がする。