2018年9月4日火曜日

9月4日の日記:台風、セブンイレブンのロコモコ

大きな台風。ここらは被害は出ていないようだけど、とにかく風が強い。

今日はほとんどルーチンのようなことしかしていない、あまりにも平均的な一日だった。
小説を読む時間がいつもより短かったかも。
特筆すべきことといえば、セブンイレブンのロコモコ弁当を買って食べたこと程度。完成度が高いとは言えないロコモコだったけれど、トマトソースとチーズの味が美味しかった。

Fate/Grand Orderではエウリュアレさんを最終再臨して、ステンノさんを三段階目まで再臨した。
アイドルマスターシンデレラガールズスターライトステージでは限定市原さんの育成。

大江健三郎の『取り替え子』『憂い顔の童子』(特に後者)と、ボルヘスのある種の小説には似通っているところがある、とふと思った。大江健三郎は長編で、ボルヘスは短編という看過しがたい相違があるけれど。
ボルヘスの作品のスタイルとして、架空の小説の評論がある。そういった作品では、 小説を読むという体験が二重化される。ボルヘスによって実際に書かれた「架空の小説の評論」自体が小説作品となるのはもちろんのこと、評論の対象となっている「架空の小説」もまた(現実には存在しないわけだけど)読者の脳内に像として結ばれて、その架空の小説を読んだ、という体験を与えることになるという意味で。
大江健三郎の小説では、主人公の古義人や友人の吾郎は作品世界の中で、それぞれにこれから自分が書くべき小説を構想したり、映画の絵コンテを書き残したりしている。そこで語られる架空の作品は、ボルヘスの評論形式の小説におけるほど明瞭なコンセプトとして提出されるわけではないが、やはり読者の中にその架空の作品がぼんやりとした残像のようなものを発生させるようだ。
どちらかといえば、大江健三郎の小説で語られるのはボルヘスのような小説のコンセプトというよりは、小説ができていく過程の体験かもしれない。そうではないかもしれない。かもしれない。

話はずれるけれど、小説の面白さにもいろいろあって、そのなかのひとつとして「コンセプト」の面白さというものがあり、ボルヘスの小説はそれが比較的大きな部分を占める。
村上春樹が「小説は頭の回転が良すぎると書けない」と言っていたけれど、ボルヘスはそれを地で行く作者だろう。ボルヘス自身は一言で要約できる小説を何百ページも書くことは正気の沙汰ではないと言っていた。(いずれもきちんと引用元に当たっていない)

再び話はずれるが、大江健三郎の場合は小説全体の価値に対するコンセプトの比重はボルヘスほど高くない。では何が重要なのか? 表現? 長い物語の全体? ひとつの物語を超えて、作品間での引用による反復が生み出す効果?