2018年9月1日土曜日

9月1日の日記:BANANA FISH、大江健三郎、猫の恩返し

9月最初の日。天気がいいのか悪いのかはっきりしない日だった。

部屋の掃除をしてからBANANA FISHの最新話を視聴。ショーターの悲しい回。
BANANA FISHはとてもいいアニメだけど、いいアニメであるだけに悲しい話が堪える。

Fate/Grand Orderの再臨素材(ゴーストランタン)がほしくて周回をしたが、まったく入手できなくて心が折れてしまった。
Twitterのフォロイーさんからアドバイスをもらって、素材が入手しやすいイベントが開催されるのを待つことにした。

午後はぼんやりしたりTwitterを見たり小説を読んだり。
大江健三郎の三部作が読みたくなって、少し前から『取り替え子』から読んでいる。今は二作目の『憂い顔の童子』の序盤。
『取り替え子』は全編通して面白かったが、終章の妻の視点になってからが加速していく感じで異様によかった。
思えば大江健三郎の文章とのさいしょの出会いは、大塚英志の本で引用されていた『取り替え子』中の吾郎が主人公に「壊れ物でない人間」について語る章だった。そういう理由からも『取り替え子』には思い入れが深い。
『憂い顔の童子』の同時はまだ読み始めなのでよくわかっていないけれど面白くなりそうな雰囲気がある。ストーリー的には『取り替え子』終章のすぐあとの時期から始まっているようだ。

それから、先日日本テレビで放送されていた『猫の恩返し』の録画を半分ほど観た。猫の城から逃げ出して迷路へ駆け込んだところまで。
『猫の恩返し』という作品は数あるスタジオジブリの映画のなかでも指折りの傑作であると考えている。宮崎駿に似ていすぎないところがよい。
『猫の恩返し』はちんまりとした映画だ。映画がちんまりとしているというのは、あまり褒め言葉ではないようだけど、この作品の場合は映画それ自体が要求している大きさに、実際の映画のサイズがぴったり当てはまっているようで、それが非常に良い効果を生んでいる。不必要に長過ぎたり、深刻すぎたり、広い範囲のことを扱ったりしていないのが、映画の完成度を高めている。
この映画はキャラクターデザインも音楽も台詞もギャグ回しも演技もなにもかもが映画全体にぴったりとはまっていて、ちぐはぐなところがない。こういう出来のいい作品はめったにあるものはないと思う。
映画の内容とは関係ないのだけど、猫王さまのお付きの猫の声が濱田マリさんという人で、この人は私が好きだった『妄想ニホン料理』という番組のナレーターをなさっていた方なので、その猫のキャラクターがしゃべるたびに番組のことを思い出しておかしかった。妄想ニホン料理、また放送再開しないものだろうか。

ふとしたことから鈴木純ちゃんとのことを思い出した。
私はかつて彼女の兄であるという前提を強く打ち出したツイートをたびたび発信していて、インターネットにかかわりのない日常生活においても純ちゃんを大事にしながら振舞っていた。
そういう日々のことと、それが(純ちゃんがすぐそこにいるという感覚が)失われた日のこととを思い出した。


思い出したというだけの話で、そのこと自体をなんらかの感傷の対象にしたり、教訓の源泉にしたりはしていない、する必要はない、しない。