2018年7月24日火曜日

7月24日の日記

昨日見つからなかったノートが見つかったのでよかった。ハッピー。
どこにあったのかまったくわからないけど、気がつくとそこにあった。よくはわからないけど、たぶんずっとそれはそこにあったのだろう。あった。みつかった。よかった。

比較的涼しかったので散歩にでかけた。
今夏初めて、鳴いているセミをみつけて嬉しくなった。
セミは嫌いじゃない。セミについてなにもしりませんが。

ふと気づいたが、私はまったく元気ではない。
どうにもならない。
頭が痛いし、疲れている。
きっと夏バテでしょう。
暑さの盛りがすぎるとともに、快方へ向かうでしょう。

漫画のエントロピーのコントロールということを考えていたことがある。
著者の意図的なコントロールのもとに物語内容や意味を伝える「情報」と、著者の制御をある程度(?)離れて無意味にそこにある「ノイズ」の対比。情報の比率が高い=エントロピーが小さい、ノイズの比率が高いエントロピーが大きい。
あるいは漫画のストーリーに関して、最初に提示された情報から、無矛盾に、なめらかに、容易に推測できる論理的に一貫した展開はエントロピーの小さいストーリーで、論理的一貫性をかくでたらめな展開はエントロピーの大きいストーリー。のように、使用する。
いずれにせよ、エントロピーが大きすぎる漫画は苦痛だが、エントロピーが低すぎる漫画は退屈になりうる。
画面上の要素についての情報/ノイズ比を考えるためのエントロピー概念と、構成の秩序を考えるためのエントロピー概念とが、微妙に重なり合いつつ、脳内で混同していて、結局このような概念を取り入れることで何も整理できていない。が、なんとなく漫画を描くときに、よりかかるための概念、アイデア?として過去に役立ったことがある。
実際に漫画を描く際に何度か、エントロピーを大きくする(ノイズを入れる)ための手法(画面に描くものをランダムに選ぶとか)をとった。読む人がどう思うのかはわからないけど、漫画を描くうえでの道標として有効だった。
そういうことを文章(フィクション)を書く際にもやってみたいのだけど、その場合はどうすればいいのかわからない。
というか、文章を書いている間は、むしろ大きくなって無へと増大していくエントロピーを制御して、どうにかまともな意味の世界にとどまるように努力をする必要があって、そうした努力はおそらく漫画の場合よりも重大で、たぶんそれは漫画表現が絵という意味と非意味の両方を持った媒体である程度できているのに対して、文章表現が言葉という意味を担うもののみに依存しているというところから来るのだろうけど、とにかく、文章が文章であるためには、エントロピーを小さくする施策で手一杯になってしまう。
22時を過ぎたから寝る準備をする。